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『三国志の知恵』

■著者=狩野直禎,■ISBN=4-06-145761-6,■出版社=講談社現代新書
(p15)桃園の誓い(必ずしも歴史事実でない),髀肉の嘆をかこつ,三顧の礼,出廬,君臣水魚の交わり,泣いて馬謖を斬る,死せる孔明生きる仲達を走らす
(p21)関羽廟〜関雨は武神として、さらに財神として、また伽藍神(寺院守護神)〜京都大興寺〜京都東北院〜宇治万福寺、長崎唐三ケ寺や聖福寺

(p24)(陳寿「三国志」)陳寿の父は馬謖の部下であったので、馬謖が斬られたとき、かれも連座〜孔明父子と陳寿父子は二代にわたって確執があった
(p25)『三国志』に注を加えたのは、陳寿より百五十年ほど後輩の裴松之ハイショウシ(372-451)である
(p26)『三国志演義』の作者は、羅貫中(羅本)である。〜『演義』の他にも『隋唐両朝志伝』『残唐五代史』『平妖伝』。〜『水滸伝』の政策にも関係
(p28)『平話』:歴史事実とは異なっているが〜仇討ちの思想と、因果応報・転生という仏教的な思想を示す〜当時の世相を反映
(p37)(演義→)吉川英治『三国志』〜柴田錬三郎(『英雄ここにあり』)、陳舜臣(『秘本三国志』)の作品があり、横山光輝による漫画もある

(p40)(黄巾の乱)蒼とか黄とか色の名前〜中国の人たちが、木火土金水の五行の循環で、宇宙のあらゆる現象を説明しようとしたとき五行に配当〜→
(p42.1)→五行に配当される色は蒼(青)、朱(赤)、黄、白、玄(黒)としたからである→
(p42.2)→王朝の交代も五行の循環で説明できるので、各王朝は五色のうちの一つを、その王朝を象徴する色として持っていた。→
(p42.3)→蒼は漢の色であり、黄は漢に代わって出てくる新しい王朝の色であると考えていたものもあった

(p44.1)中国では紀元前二世紀の後半、漢の武帝のころから、大土地を私有することが社会問題になり、しばしば土地所有を制限しようとする意見→
(p44.2)→〜実行されるにはいたらないで、かえって大土地所有の傾向はおし進められていった

(p45.1)劉備〜若いころ貧乏暮らし〜盧植ロショク先生の私塾に通うことができたのは、同族の劉元起の援助があったからである。→
(p45.2)→元起は自分の息子も同じ塾に学ばせていたが、かれらを分けへだてなく扱い、仕送りしてやっていた。→
(p45.3)→元起の妻〜「劉備の家にはその家の家計があるのだから、それほどまでしなくても」と文句をいうと→
(p45.4)→元起は、「かれこそわが劉氏のホープである」と答えてとりあわなかった
(p45.5)大土地所有者−豪族は、血縁集団の外側に非血縁の集団を含んで〜耕作させる小作人、家内労働に従事する奴隷、あるいは客と呼ばれるもの→
(p46.1)→主人と客の間には、任侠的な関係が存在していた。任侠的とは、約束は必ず守るという相互信頼に根ざすものであり、心情的な部分が強い→
(p46.2)→〜が、やはり経済的な要素や、客の主アルジに対する将来への期待感が、両者の結びつきの大きな要素となっていた
(p48.1)(赤壁戦前の魯粛)私ならたとえ曹操に降伏して故郷に送り返されても、故郷では名門として名が通っているから、県の役人くらいにはなれる→
(p48.2)→〜しかし孫権閣下よ。あなたの家は、武勲によって新たに興ったので、名門とはいえますまい。〜降伏したらどう扱われるかわかりませんよ→
(p48.3)→名門とそうでないものでは、世間の扱いがこうも違う〜。〜身分の固定化が始まり、貴族化の傾向が進んできたことを示す

(p51.1)(曹操の屯田制)持ち主のない土地を国家の手に収め、民を募り、一定の土地を割り当てて耕作させたのである。これを「屯田」と呼んだ→
(p51.2)→普通、屯田〜国境地帯において、兵士に耕作をさせ、糧食を自給して、戦時には武器を取って戦わせるものを指す。これを「軍屯」と呼ぶ→
(p51.3)→に対して、曹操の行ったものを「民屯」といい、管理する役所も異なっている

(p55.1)「才能あるものだけを推挙せよ」これが曹操の人材登用の根本方針であった→
(p55.2)→一方では、「五百戸以上の人口のある県には学校を置き、その地域の俊才を選んで教育するように」との命令〜人材の育成にも心がけさせた
(p57)(ソノモノハ行ワレナカッタガ)官職を九品に分かつ九品制は、朝鮮半島の三韓時代の位階制や、わが国推古朝の冠位十二階や大宝令の位階制の源流となった
(p59)曹操は詩人〜子の曹丕も曹植も〜。〜五言を一句とする五言詩が、従来の歌謡から脱却して、詩の一分野を形成することになった

(p61.1)三国時代のもつ面白さというのは、ひとつには英雄・豪傑がおりなす人間模様であり、血湧き肉踊るの感が深いのであるが、また一面、→
(p61.2)→三国時代が中国の歴史の流れの中で大きな転換期にあり、しかも三国時代に生まれた制度や文化が、いろいろな形で日本の制度や文化に影響
(p64)(反董卓連合軍)しかし連合軍といったものは、洋の東西、時の古今を問わず、永続するものではない
(p66.1)(天下三分計)諸葛孔明と〜魯粛の働きで、劉備・孫権の同盟が成立〜赤壁の戦〜曹操は敗れて北に逃げ帰り、天下三分の第一段階が終わった
(p66.2)→荊州〜孫権との間が東西に二分割する約束(215)〜、関羽が、曹操・孫権連合軍に殺されるにおよんで(219)〜天下三分の形勢が完成した

(p71)(呂布の陳寿評)「武力に秀スグれていたが知略に欠ける」「悪がしこくて、言行は変わりやすく、ただ利益だけを追っている」
(p77)(許劭キョショウの曹操評)「治世の能臣、乱世の姦雄カンユウ」
(p78.1)曹操はつねに彼(夏侯淵)を戒めて、「将軍となったら、臆病になるときもなければならない。ただ勇だけを恃タノんではいけない。→
(p78.2)→勇をもって本となすべきだが、行動するときは智を用いるように。ただ勇にまかせるだけでは、一人の男を敵にすることになるので→
(p78.3)→将とはいえない」といっているが、これは現在にも生きる言葉である

(p80.1)(孫策が弟孫権に)戦争をして天下を取ろうとすることにかけては、おまえはわしに及ばない。しかし部下の能力を引き出し心から働く気にさせ→
(p80.2)→この江東(揚子江下流)を保つ点では、わしはおまえに及ばない(と遺言し、後事を張昭に託して死んだ)
(p87.1)これ(孔明の天下三分の計)とほぼ同じ発想を、孔明より七年ばかり前にしていたものがあった。それは魯粛である

(p87.2)孔明「曹操は袁紹に較べれば、名声も部下の数でも劣っていたのに強くなったのは、時勢がかれに味方しただけでなく、たくみな計略と人望〜→
(p87.3)→いま曹操は天子(献帝)を推戴スイタイしており、これと争うことはできない。孫権もすでに孫堅以来三代たち、これとも助け合うことはできても→
(p87.4)→その地を奪おうとすることはできない。荊州は武を用うべき地であるが、劉表はここを守ることはできない。益州は天然の要害、土地も豊か→
(p87.5)→だが劉障は愚かであり、知能のある人たちは名君を求めている。あなたは荊州・益州をわがものにし、孫権とは同盟を結ぶべきだ」
(p88.1)魯粛も〜「1,漢室の復興はできない 2,曹操はにわかに除くことができない 3,あなたは江東に鼎立テイリツして天下の情勢を観望カンボウすべきであ→
(p88.2)「→ 4,荊州の劉表を討って、長江流域を手に入れるべきである」という四箇条に整理できよう(魯粛の天下三分計)

(p89.1)正確な現状分析〜孔明の住んでいた襄陽は、長江の支流漢水に臨んでおり〜、上流は当時五斗米道の張魯が宗教王国を築いていた漢中に→
(p89.2)→下流は長江との合流点夏口に通じるし、まっすぐ北に陸路をとれば洛陽に、南に行けば江陵に、北東に向かえば曹操の根拠地許に通じる→
(p89.3)→(襄陽は)交通の要衝に位置しており、当然、襄陽に流れる情報の量は多かったに違いない
(p90.1)魯粛の場合も「かれは財産を分けて少年たちを糾合キュウゴウした」と見えているが、かれがこうしたグループを形成し主宰していたこと、→
(p90.2)→魯粛の故郷が京滬ケイコ線(旧津浦線)に沿う交通路上にあることなど、情報の収集には当然有利だったはずである

(p92)(ジュンイク)中国人の常〜歴史的な事件を例に引きながら議論を進〜歴史的に考察〜歴史を学び〜人がどのように行動したか〜参謀の重要な条件
(p93.1)立派な計略も、それが実行に移されなければ絵に描いた餅と同じ〜謀臣が後世に名を残すか否かは、それを採用するよき主君にめぐり会えるか→
(p93.2)→主君の側からしてみれば、部下の能力を充分に発揮させられるか否かが、かれ自身の成功・不成功につながることになる

(p97.1)孔明「それは前からわかっている〜かれはぜんぜん戦う意志はない〜明帝に軍を出してよいか願い出たのは、衆人に対するジェスチャー→
(p97.2)「→『将軍は戦場に臨めば、君主の命も聞かない』という鉄則がある〜ほんとうに武力で制圧する意志があるなら、中央に伺いを立てない〜」
(p98.1)孔明はさすがに軍師〜自分が死んだあとの撤退の手順まで、すべて決めておいた。そのプラン〜後退の途中で楊儀が軍旗を翻して引き返し→
(p98.2)→追う仲達の軍を防ぎ止めることも入っていた。楊儀の動きを見て、仲達は孔明にはかられたかと、追撃の軍を止める一幕もあった→
(p98.3)→これが「死せる孔明、生ける仲達を走らす」〜仲達は兵の去った蜀の軍営の跡を見て、「さすが立派な陣立てだ」と感心した
(p99.1)(仲達クーデター)口を指さして、のどがかわいたといおうとする。侍女が粥カユを勧めると、かれ(仲達)はおわんを手に持って粥を啜ススろうとするが→
(p99.2)→粥はみな流れ出て、胸にべっとりとくっついてしまった。(〜さらにボケたフリもする〜)李勝は帰って曹爽にありのままに告げ〜→
(p100)→曹爽側はすっかり安心〜ところが、これがすべて敵を欺アザムくお芝居だった〜翌年一月、クーデターを起こし、曹爽〜みな誅殺された〜→
(p101)→政治家にとって、病気であると噂されるのは、それだけでも致命傷なのに、わざと重病人のふりをして敵を安心させる謀略であった

(p102)周瑜が江陵に執着〜益州を手に入れるための布石〜。赤壁の戦〜呉・蜀同盟も成功したが〜荊州領有をめぐっての劉備・孫権の争いが幕を開けた
(p106.1)(曹操が黄蓋の偽装降伏を見抜けなかった)曹操には、周瑜・魯粛が呉国内でははねあがって主戦論をとり、張昭らの宿将たちと対立している→
(p106.2)→黄蓋も宿将の一人であり、降伏を申し込んだ文書の中にも「周瑜や魯粛は浅はかで、愚かな策を抱いており、かれらの気持ちがわからない」→
(p106.3)→といっているので、信用する気になったのだろう。謀略もそれに真実らしさがあればあるほど、相手側を惑わし、効果があるのである
(p114.1)ここに挙げたいくつかの計略(周瑜と黄蓋との苦肉の策,胡盧口での孔明指示による曹操追撃の趙雲・張飛・関羽)からもわかるように→
(p114.2)→よい策略というものは、的確な現状分析と冷静な判断力、そして相手の心理を読んだ行動、平素からの熱心な研究心などの積み重ねの上に生ま

(p119.1)(袁紹に曹操討伐を諫める沮授)「戦利品を天子に献上して尊皇の意を示〜」いまは戦闘を避けて賊ゾクの汚名を曹操にきせ、じっくりと時間をか
(p119.2)軍人はいつでも戦争好きである →p121主戦論と慎重論とが対立したとき、必ず人の気をそそるものは、景気のよい主戦論である
(p144)「忠信を主とせよ」〜『論語』に見える言葉〜他人に対してまことをつくし、自己に対してもいつわりのない生活を送ること〜中国人の尊ぶ倫理
(p146.1)(関羽の白馬の戦い,曹操に恩義に報いて劉備のもとへ)関羽は曹操からもらったものにはいっさい手を触れずきちっと封をして、別れの手紙〜→
(p146.2)→追いかけようとすると曹操は、「かれはその主人のために一所懸命やっているのだ。追うな」

(p149.1)劉備と孔明に似た君臣関係は、どうも魏のほうにはあまり見受けられない。曹操とジュンイク、ジュンユウなど、最後は悲観的な関係になり→
(p149.2)→とても「君臣水魚の交わり」とはいえない。文帝曹丕が子の明帝を託した四人(曹真・曹休・司馬懿・陳羣)と、文帝・明帝の関係もそう→
(p149.3)→これはやはり曹操や曹丕の“乱世の姦雄”などといわれる性格によるものであろう
(p150)他人から信頼を得るためには、まず自分自身を律することに厳しくなければならない
(p151.1)孔明が「泣いて馬謖を斬った」のも、軍紀の粛清を保たねばならぬ〜あえて馬謖を斬ることによって偏私−えこひいきをさけたのである→
(p151.2)→(出師の表)「陛下のおられる宮中と、政治の行われる府中とは、一体であって決して分かれてはならない。善悪賞罰は異なってはいけない。→
(p151.3)「→悪いこと〜罪科を犯すものがあったり、忠善の行をなすもの〜なら、さっそく役人にお申しつけありて、悪人に刑罰を加え、善人をほめ〜→
(p151.4)「→天子のお側にいるから悪事をしても罰せられぬ、府中にいるから功績あっても賞せられぬ〜偏私があって〜法の適用が異なってはなりませぬ

(p153.1)(曹操)「ここのところはおまえに死んでもらって、人々の不満をしずめようと思う」斬ってしまった。斬られた側からすれば主人の危機を救う→
(p153.2)→あえて斬られたという理屈になるかもしれないが、やはり手のひらを返すような曹操の態度にはやりきれぬ〜現在の不正事件〜課長補佐〜自殺
(p157)かれ(呂布)にもしよき参謀がいたなら、もう少し違った人生を歩んだかもしれない

(p159)曹操は袁術の敵であるという理由で劉備を鎮東将軍に任じた。“敵の敵は味方”という論理が、曹操と劉備を結びつけた
(p160.1)ここまでの備の行動は、呂布とくらべた場合に、外面的には五十歩百歩〜。〜違うのは〜人を引きつける人間的魅力〜謀臣〜諸葛孔明

(p164)劉封「孟達の言を用いなかった〜」〜魏にくだって生を保ったほうがよかったか、ここで自殺したのがよかったか。読者はどう思われるだろうか

(p171)名声と実力の不一致にまず他人が気づき、本人はほとんど無自覚のまま最後の時を迎えるというのが、古今を通じての常道

(p179.1)(刺客と知らず手厚くもてなす劉備)“同じ釜の飯を食う”〜身分の差をかまわず、飲食などを共にするのは、人心収攬シュウランのひとつの手段
(p179.2)(諸葛亮が劉ソウを攻めてはと提言したトキ)劉備「吾は忍びざるなり(私には耐えがたい)〜孟子の言葉では「忍びざるの心は仁の端イトグチ」
(p180)(曹操追撃から逃げる劉備,非戦闘員切り離し策に対し)「そもそも大事業をなすには、必ず人間が根本である。いま、人が私の所になついて〜」
(p183.1)陳寿「袁紹・劉表〜外観は寛大のようでも内面は疑い深く、謀略を好んで決断力がなく、才能ある人物がいても用いることができない。→
(p183.2)→善いことを聞いても、聞き入れることがない。嫡子を廃して庶子を立て、礼を捨てて愛情を尊んだ。後継者の時代〜滅亡〜不幸な〜ではない」

(p188.1)(曹操)文武を兼ね備えた異能の人〜建安を代表する詩人であり書家としても有名〜音楽も囲碁も当時の名人上手にくらべてひけをとらなかった→
(p188.2)→し、晩年まで学問に倦ウむこともなかった。また不老長生の術にも深い関心を示した
(p189.1)(曹操)子供の教育にも熱心で、長男の文帝の思い出〜六歳で弓を射ることを教えられ、八歳で馬に乗ることを教わった→
(p189.2)→一方では詩を誦し、五経や史書百家の言を学ばされたとある。かれ〜自身の能力に恵まれた上に、よく謀臣の意見を取り入れ、機に応じて決断

(p196)(勝者の条件)1,ひとつは時代の流れをいかに的確にとらえていくかということである。
(p197.1)(勝者の条件)2,二つには、人材を集め、かれらに能力を発揮させることである。
(p197.2)(勝者の条件)3,三つには、こうして集めた多くの人々の意見を聞くとともに、それを実行に移す機会を見失わぬことである。
(p202)トップの後継者争いは、とりまき(派閥)によってあおられていくものだ

(p209.1)孫盛は沮授や田豊を論じて、「かれらの謀ハカリゴトは、漢の高祖の謀臣張良や陳平にもおとらない。→
(p209.2)→君主は臣下の才能を見きわめることが貴トウトばれ、臣下は主君の力を量るのが大事とされる。→
(p209.3)→君主たるものの忠良なものを用うれば覇王の業は盛んとなり、臣下の身として闇君を奉ずれば、滅亡の禍がやってくる。→
(p209.4)→存立するか滅亡するか、栄誉をうるか恥辱を受けるかは、必ずこれに原因する」

(p210)部下はよき上司に恵まれることが大切であり、上司は部下の能力を引き出し、その意見をとりあげてやるよう努めなければなるまい


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