三年生になった春、武(たけし)の父親がタケシに言った。
「剣道をやれ。」
ケンドー、というのは初めて耳にする言葉だった。
「ケンドーって?」
「竹の棒で相手をバシバシ叩き合うんだ。」
−−−ふうん。
「痛そうだね。」
次の日曜日、タケシは父親に連れられて、ケンドージョウへ行った。
瓦葺き(かわらぶき)の煤(すす)けた建物の正面には大きな木の板が掛かっている。
−−−場道剣−−−
「ジョウドウケン?」
「バカ、右から読むんだ。」
「何で右から書くのさ。」
「知るか。」
玄関で靴を脱ぎ、薄暗い廊下を左に折れると、小学校の体育館の半分ほどの広さの板の間に出て、入る前にタケシは靴下を脱がされた。
板はひやりとして冷たく、足の裏にくっつくみたいで、ちょっと気持ちいい。
入って行こうとすると背の高い人が待ちかまえていてタケシを呼び止めた。
夏に着る白いユタカみたいな上着の裾(すそ)を、紺のスカートの下に入れている。
「君、道場に入る時は必ず一礼しなさい。出る時も。」
何で? という言葉がタケシの口から出そうになったのを、父親がゲンコツで止めた。
二カ月の間、タケシは他のみんなと一緒に道場でのレイギサホウを教わり、次に"アシハコビ"というおかしな歩き方をやらされた。
いつも右足が前、左足が後ろで、左足のカカトは少し浮かせておく。
「床の上に、薄い濡れた紙があると思いなさい。その紙を破らないようにスッ、スッ、と足を出すように。」
「−−−先生。」
タケシは手を挙げた。
「上条君か、何だ。」
「その紙は、どうして濡れてるんですか?」
「・・・・・・。」
よく聞こえなかったのかな、とおもって、タケシはもう一度はっきりした大きな声で繰り返した。
「−−−まあ、その・・・あれだ、物の例えというやつだ。」
「モノノタトエだと。濡れるんですか?」
「いや、だから−−−」
それきり、先生は口をつぐんだ。
(何で黙りこむのさ)
隣に並んでいた工藤君の方を向くと、工藤君は困ったようにそっぽを向いた。
しばらくして、タケシ達はそれぞれ竹の棒を持たされた。
刀の代わりだそうで、両手で握る所と先っぽに白い皮がかぶせてある。
シナイ、というのだそうだ。
タケシは竹刀を両手で握り、教えられたとおりに構えてみた。
(なるほど−−−)
タケシはうなずいた。
(−−−昔のサムライが強かったわけだ。)
竹刀をとって構えると、体中の毛がごわごわと逆立つみたいになって、ヘソの下にぐっと力が入る。
そして自分の周りの空気が何だか少し涼しくなるようなのに、腹の中はかっかっと熱くなっていく。
変な感じだけど、変じゃない。
−−−これが、"かたな"か−−−
次の週、タケシ達は面打ちを教わった。
先生はみんなを並ばせて前に立ち、見本を見せる、と言うと深呼吸を一つして、竹刀を構え直した。
「じゃあ、やります。」
竹刀を握った先生の両の拳(こぶし)が静かに上がり始めた。
それにつれて剣先(けんせん)がするすると上がって行った。
やがてそれは先生の頭の上を過ぎ、さらにうしろの方へ上がって行く。
止まった。
と思った瞬間、竹刀が消えた。
同時に雷のようなキアイがタケシ達の耳をつんざいた。
だあん、と床が鳴った。
みんな思わず目をつむった。
(・・・・・・?)
目を開いてみると、竹刀はさっきとは全然別の所にあった。
白い剣先は、先生の伸び切った右腕のずっと先、もし相手がいればちょうどその頭の上で、まるで最初からそこにあったみたいに止まっていた。
道場が、しいん、となった。
みんな、息をするのも忘れて白い剣先に見入っていた。
「−−−先生−−−」
ふと声があがった。
「−−−何でそこで止めるんですか?」
その声で、みんなは呪文を解かれたみたいに体の力を抜いた。
声のした方を向いてみるとタケシだった。
「−−−また君か、何だ。」
「何でそこで竹刀を止めるんですか?」
「今、教えているのは面打ちだろう。面というのは顔とか頭のことだ。
だからここで止めるんじゃないか。」
「でも−−−」
タケシは口をとがらせた。
「−−−それじゃ相手は殺せないなぁ。」
「・・・・殺す?」
先生は顔をしかめた。眉と眉の間に定規で引いたような線が二本出来た。
「上条君、勘違いするな、剣道は人殺しじゃないんだ。」
先生がちょっとおっかない顔をするので、みんなは心配そうな目で先生とタケシを見くらべた。
「剣道は自分を鍛えて強い人間になるためにやるものだ。
しかしいくら試合で強くなっても、相手を大事に出来ないようなのは本当の強さじゃないぞ。」
「・・・・変だなあ。」
「何が変だ。」
「"かたな"は人を殺すためのものでしょう。
それとも昔の人は相手を大事にするためにかたなを作ったんですか?」
「・・・もういい。」
先生はそこでうち切った。
(何が"もういい"んだろう−−−)
隣にいた沢村君の方を向くと、小さい声で"こっち見るなよ"と言われた。
初めて出た大会で、タケシは三位になった。
予選リーグでは全勝した。
小手を思いっきり打たれてうずくまる者、突きとばされて床に頭を打ちつける者、対戦をいやがって泣き出す者、
タケシの相手には決まって何かしら起こった。
準決勝でタケシは先に面をとった。
しかしすぐに小手と面を取り返されて敗けた。
相手はよその道場の先生の息子だった。
夕ごはんの時、試合を観に来ていた母親がタケシに言った。
「おしかったねえ。お前、背がもうちょっとあったら勝ってたかもね。」
「ちがうよ−−−」
タケシは首を振った。
「−−−あれは僕が勝ったんだ。」
「・・・?」
「先に面をとった時、あいつ痛そうな顔してた。本物のかたなならとっくに死んでるよ。」
母親はぽかん、と口を開けた。
兄のアキラは、そういうのをマケオシミと言うんだ、と言ってからかった。
父親は黙っていた。
黙っておちょこの酒をすすっていたが、
にやり
と一つ微笑(わら)った。
タケシにはそれがわかった。
タケシより4つ年上の、中学一年になる兄のアキラは、この日機嫌良さそうに、
「タケシ、久しぶりに一緒に風呂入ろうぜ。」
と言った。
タケシは首をひねった。
一緒に風呂に入るなど、二年ぶりである。
「何で?」
「まあ、ちょっとな。」
アキラはにまっと笑うと二階へ上がって行った。
タケシは不安になった。
アキラがこんな笑い方をする時は、たいていロクな事が起こらない。
(何だろう−−−)
そういえばおととい、アキラの勉強机の下から出て来たエッチな本を面白がって見ていて、ページのはしを破いた。
(−−−さては、バレたか)
タケシは体をこわばらせた。
「おい、入って来いよ。何してんだよ。」
曇りガラスの向こうでアキラの声が響いた。
タケシはもう裸になっていたが、入って行く決心がつかないでいた。
何度か湯をつかう音がして。静かになった。
兄は湯船につかったようだ。
タケシは三年前の事を思い出した。
アキラのサッカーボールを内緒で持ち出したのがバレて、風呂場で延々と説教された事があった。
父親と違って、アキラの説教はタチが悪い。
父親は説教らしい事をあまりしない。
やった事を認めれば、後は二つ三つのゲンコツかビンタで終わる。
ところが、父親の血をどう受け継いだのか、アキラの説教は実にねちっこい。
−−−何で呼んだか、分かってるか
から始まり、犯行の理由、現在の心境、今後の心構えなどを一通り訊問(じんもん)し、
"もういいだろう"とタケシが思う頃になると、今度は過去の過ちを引き合いに出して同じ訊問を繰り返すのである。
やられるタケシの方はたまったものではない。
「男女男」(原稿では←これで一字) (なぶ)られるようなものである。
(ビンタの方がよっぽどマシだ)
タケシは心底そう思った。
「−−−タケシ、そこにいるのか?」
湯のこぼれる音がした。影が動いた。
(ええい−−−)
タケシはノブをつかんだ。
ひやりとした鉄の冷たさが背骨まで響いた。
(−−−どうにでもなれ)
説教が始まったら、ゲンコツの三つくらいはこっちから買って出てやろう−−−
肚(はら)は出来た。
ドアを明けて入って来たタケシを、アキラは目玉だけを動かしてじろり、と見た。
その目玉の動きが、いやにゆっくりだった。
兄は両腕と頭を湯船のヘリにのせている。
「何つっ立ってんだ、早く体洗えよ。」
(大きなお世話だ)
タケシは腹の中が熱くなるのを感じた。
この兄はどこでおぼえたものやら、弟をやりこめる時はいやらしい程もったいぶった態度をとる。
(そっちがそのつもりなら)
−−−負けるか。
タケシはざぶざぶと手荒に体を洗い、一気に湯船に身をしずめた。
湯が勢いよくあふれ出た。
湯煙がもうもうと上がる。
「−−−で?」
首までどっぷりつかり、兄と正面から向き合った。
「何で今日は一緒なのさ。」
両腕を胸の前で組んで顎(あご)を上げ、下目でアキラを見すえた。
タケシなりに精一杯の"エラそうな"ポーズである。
しかし、兄の表情は動かない。
そればかりか、ヘリに頭をのせたまま弟の視線を迎え、鼻でふん、と息を飛ばすと口元をくくっと左右に引っ張り上げた。
(こん畜生−−−)
タケシの右眉がぴくっと上がる。
(−−−笑いやがった)
タケシはさとった。
この兄はこっちの心を全部読んでいるに違いない。読んでいてこんな態度をとっているのだ。
タケシの中に、一すじの青黒い光がともった。
アキラを睨(にら)みすえたまま、顎をぐっと引いた。
タケシの目が、ぎりと光った。
(ナメやがって−−−)
兄の頬(ほほ)にはあいかわらず笑みが浮かんでいる。
「タケシ−−−」
ふいにアキラの口が開いた。
「ちょっと目ぇつぶってみろ。」
(・・・?)
「いいから、目ぇつぶってみろよ。」
タケシは迷った。言われた通りにするべきか。
しかしいきなりこう言われてしまうと、他にどんな手も浮かばない。
タケシは観念して目を閉じた。
まぶたの向こうで湯がゆれた。
水面がぐっと下がり、タケシの体が急に重くなる。
「もう、いいぞ。」
頭の方から声がした。タケシは用心しながらそろそろと目を開けた。
「・・・・・・」
「どうだ」
「・・・・・・」 「どうだ、え?」
「"どうだ"って、チンコがどうしたって言うのさ。」
「よく見てみろ。」
「?」
「ここだ、ここ。」
アキラは皺(しわ)のよった細長い棒のつけねを指さした。
タケシは顔をよせた。
「あっ−−−」
「・・・・・・だろう?」
ひょろり、とした弱々しい黒い筋が二本、仰ぐように伸びている。
「・・・・・・すげえ。」
タケシは惚れ惚れと兄を見上げた。
「・・・・・・触っても、いい?」
「引っ張るなよ。」
兄はにこやかにうなずいた。