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相撲のふるさとは「神事」

【神事としての相撲】
相撲は神事としての性格が欠かせません。
古くは大陸系から渡来した葬送儀礼としての相撲と、東南アジアから伝来した豊穣儀礼としての相撲があったと考えられます。
祭の際には、天下泰平・子孫繁栄・五穀豊穣・大漁等を願い、相撲を行なう神社も多いのです。
そこには、卜占いとしての意味も強く、二者の勝敗より、五穀豊穣や豊漁を占うというものです。
和歌山県、愛媛県大三島の「ひとりすもう」の神事を行なっている神社もあり、稲の霊と相撲し霊が勝つと豊作となるため常に負けるもの、などもあります。
相撲神事を行うことで土中の邪気を払う意味の儀礼である四股(しこ)は重視され、相撲神事の多くではこの所作が重要視されています。陰陽道や神道の影響も受けて、所作は様式化されていきました。
(大相撲の神事)
江戸中期以降の大相撲は特に神道の影響が強く、力士の土俵入りの際に柏手を打ち、横綱が注連縄を巻くようになったのは、相撲の宗家とされた吉田司家の許可に基づくものであります。
東京での本場所前々日には東京都墨田区の野見宿弥神社に日本相撲協会の幹部、審判部の幹部や相撲茶屋関係者が出席して、出雲大社教の神官によって神事が執り行われています。
■土俵祭
土俵祭とは、本場所の前日には立行司が祭主となって行なう祭事です。
介添えの行司が清祓の祝詞をあげた後、祭主が神事を行い、方屋開口を軍配団扇を手にして言上。この後、清めの太鼓として、呼び出し連が土俵を3周して式典が終了。
寛政3年(1791年)征夷大将軍・徳川家斉の上覧相撲の際に吉田追風が「方屋開」として始めたもと記述があります。
相撲場は明治中期まで女人禁制で、明治になるまで観戦することも出来ず、現在でも土俵上に女性が登るのを忌避しています。
もともとスポーツではなく、力のある男性が神前にてその力を捧げる神事であり、そのため神に対する敬意を示すための礼儀作法が重視されているのです。
【相撲の起源】
■古代
相撲の起源は非常に古く、古墳時代の埴輪・須恵器・土偶にもその様子が描写されています。
『古事記』の日本神話においては、建御雷命(タケミカヅチ)の葦原中国平定の際、建御名方神(タケミナカタ)が、「然欲爲力競」と言った後建御雷命の腕を掴んで投げようとした描写があります。
その際建御雷命が手をつららへ、またつららから剣に変えたため掴めず、逆に建御雷命は建御名方神の手を葦のように握り潰してしまい勝負にならなかったそうです。
『日本書紀』には、神ではなく人間としての力士同士の戦いで最古のものとして、垂仁天皇7年7月7日(旧暦)にある野見宿禰と「當麻蹶速(当麻蹴速)」の「角力」(すまひと訓す)での戦いである(柔道または、柔道の起源)といっています。
この中で「朕聞 當麻蹶速者天下之力士也。」「各擧足相蹶則蹶折當麻蹶速之脇骨亦蹈折其腰而殺之」とあり、宿禰が蹴速を蹴り技で脇骨と腰を折って殺したとされ、少なくとも現代の現在の相撲とは異なり、武術であったと思われます。
『古事記』の垂仁記には、
「ここをもちて軍士の中の力士の軽く捷きを選り聚めて、宣りたまひしく、その御子を取らむ時、すなわちその母王をも掠取れ。髪にもあれ手にもあれ、取り穫む隨に、掬みて控き出すべし。とのりたまひき。ここにその后、かねてかその情を知らしめして、悉にその髪を剃り、髪もちてその頭を覆ひ、また玉の緒を腐して、三重に手に纏かし、また酒もちてその御衣を腐し、全き衣の如服しき。かく設け備へて、その御子を抱きて、城の外にさし出したまひき。ここにもの力士等、その御子を取りて、すなはちその御祖を握りき。ここにその御髪を握れば、御髪自ら落ち、その御手を握れば、玉の緒また絶え、その御衣を握れば、御衣すなはち破れつ。」
とあり、初めて「力士」(ちからひと・すまひひと)の文字が現れました。
『記紀』には、景行天皇四十年(110年)に日本武尊が、大和国の息吹山の神を素手で倒そうと、草薙剣を持たずに、素手で山に入った事が記されています。
『日本書紀』の雄略天皇十三年(469年)に、秋九月、雄略天皇が二人の釆女に命じて褌を付けさせ、自らの事を豪語する工匠猪名部真根の目前で「相撲」をとらせたと書かれています。
これが記録に見えるわが国最古の女相撲なのです。
『日本書紀』の皇極天皇元年(642年)7月12日「乙亥 饗百濟使人大佐平智積等於朝 或本云 百濟使人大佐平智積及兒達率 闕名 恩率軍善乃命健兒相撲於翹岐前」にあるとおり百済の王族の使者をもてなすため、健児(こんでい・ちからひと)に相撲を取らせたことが書かれています。
『古事記』『日本書紀』以外にも相撲の記述が見られます。
■奈良・平安時代
『萬葉集』の五巻に、天平2年(730年)4月6日と、翌年(731年)6月17日に相撲をしたという記録があります。
聖武天皇は勅令をもって、全国各地の農村から相撲人をなかば強制的に募集し、毎年7月7日の七夕の儀式に、宮中紫宸殿の庭で相撲を観賞したとあり、こうした宮中における相撲の披露は、「天覧相撲」と称さました。
平安時代になると、相撲がすでに宮中の重要な儀式となり、毎年、定期的に「三度節」の一つとして「相撲節会」が行われました。
相撲節会の儀式は、すなわち中国唐代の儀式をまねたもので、三度節には、「射礼」と「騎射」、「相撲」の三つの内容です。
その規模は壮大で、豪華絢爛な催しであったとされています。
宮中で行われた相撲節会のほかには、民間の相撲も大いに行われて、一般の庶民による相撲は「土地相撲」、または「草相撲」と呼ばれていました。
一方、「武家相撲」は武士たちの組み打ちの鍛錬であり、また心身を鍛える武道で、やがて実戦用の武術と発展します。
また「神事相撲」は、農作物の豊凶を占い、五穀豊穣を祈り、神々の加護に感謝するための農耕儀礼として受継がれていきます。
宮廷相撲であり、民間の相撲。武家相撲であり、庶民の相撲であるが、とりわけ「相撲節会」は、古代中国の宮廷で行われた角力が遣隋使・遣唐使の歴史以前にも往来があり、来渤海使もなんども日本へ赴いたなかで影響も推測されます。『今昔物語集』などの当時の説話には、相撲節会におもむく全国各地の力士たちにまつわるエピソードが紹介されています。
■鎌倉・室町時代
源頼朝が相撲を奨励し、また、曾我兄弟の仇討ちもこの頃に起きています。
室町時代以前には着衣で相撲を楽しむ庶民の絵などが残されており、遊戯としては土俵も無く着衣で行なわれていたようです。
戦国時代には、織田信長が相撲を奨励し、信長は土俵の原型の考案者とされています。
■江戸時代
江戸時代から、職業としての相撲が始まり、大相撲と呼ばれるようになりました。興行としての相撲が組織化されたのは、江戸時代のはじめ頃のようです。しかし、浪人集団との結びつきが強いという理由で、1648年(正保4年)には幕府によって江戸における辻相撲禁止令が出されたとあります。
その後、1684年(天和4年)、寺社奉行の管轄下で、職業としての相撲団体の結成と、年寄による管理体制の確立が条件とされて、相撲の興行が許可されたのです。このとき、興行を願い出たものに、初代の雷権太夫がいて、それが年寄名跡のはじめとなったと謂われています。
このときの興行は江戸深川の富岡八幡宮境内で行われ、寺社奉行の管轄となったことで、江戸時代のあいだ、興行は江戸市中の神社や寺院の境内で行われたのです。
本所の回向院での開催が定着したのは、1833年(天保4年)のことです。
『相撲傳書』によるとこのころは土俵はなく「人方屋」という見物人が4〜5間(直径7〜9m)の人間の輪を作り、その中で取組が行われたようです。
寛文年間(17世紀半ば)には格闘技のリングのように柱の下へ紐などで囲った場所で行われ,それが後に俵で囲んだ四角い土俵になりました。
次に延宝年間(1670年頃)、土俵の四隅に四神をあらわす4色の布を巻いていた柱を立て、屋根を支えた方屋の下に五斗俵による13尺(3.94m)の丸い土俵が設けられたのです。
享保年間(18世紀はじめ)に俵を2分の1にし地中に半分に埋めた一重土俵ができました。これに外円をつけて二重土俵(「蛇の目土俵」ともいう)となり、内円に16俵、外円に20俵いることから「36俵」と呼ばれました。
この時期には江戸のほかにも京都や大坂に相撲の集団ができ、当初は朝廷の権威、大商人の財力によって看板力士を多く抱え、京都、大坂相撲が江戸相撲をしのぐ繁栄を見せたようです。
興行における力士の一覧と序列を定めた番付も、このころから、相撲場への掲示用の板番付だけでなく、市中に広めるための木版刷りの形式がはじまったようです。
現存する最古の木版刷りの番付は、江戸では1757年(宝暦7年)のもので、京都や大坂では、それよりも古いものが残されています。
江戸相撲は、1789年(寛政元年)、司家の吉田追風から二代目・谷風梶之助、小野川喜三郎への横綱免許を実現。さらに征夷大将軍徳川家斉の上覧相撲1791年(寛政3年6月11日)を成功させ、雷電爲右衞門の登場もあって、この頃から江戸相撲がおおいに盛り上がり、やがて、「江戸で土俵をつとめてこそ本当の力士」という風潮が生まれたのです。
各団体間の往来は比較的自由であり、江戸相撲が京都や大阪へ出向いての合併興行(大場所)も恒例としてほぼ毎年開催されたようです。力量も三者でそれほどの差はなく、この均衡が崩れはじめるのは幕末から明治にかけてのことです。
1827年(文政10年)、江戸幕府が「江戸相撲方取締」という役を江戸相撲の吉田司家に認めました。
幕末に「相撲VSレスリング」や「相撲VSボクシング」の異種試合が行われた記述があります。
また、アメリカ合衆国海軍のマシュー・ペリー提督が黒船で来航した1853年(嘉永6年6月11日)に、雷權太夫や玉垣額之助ら年寄総代は文書により攘夷協力を番所に申し出して,一方、翌年ペリーが再来日して条約を締結した際には、米国へ返礼として贈られた米200俵を江戸相撲の力士たちが軽々と運び米軍人を驚嘆させたとあります。
1863年(文久3年6月3日)、大阪北新地で壬生浪士組(後の新選組)と死傷事件を起こしたのは大阪相撲の力士で死亡したのは中頭の熊川熊次郎(肥後出身)de,この事件の手打ちとして京都での興行では京都、大阪の両相撲が協力したようです。力士のなかには、後に勤皇の志士となったものもいます。
■明治中頃
訪米中の常陸山明治維新と文明開化に伴い、1871年(明治4年)東京府のいわゆる「裸体禁止令」により東京相撲の力士は罰金、鞭打ち刑に処されました。また「相撲禁止論」が浮上した事もあるようです。
これは、みずからも相撲をとることの多かった明治天皇と、その意を受けた伊藤博文たちの尽力により、1884年(明治17年)に天覧相撲が実現し、大相撲が社会的に公認されることで危機を乗り越えることができたのです。
この天覧相撲の力士は58連勝(史上3位)を記録した15代初代横綱・梅ヶ谷藤太郎です。東京相撲協会と大阪相撲協会ができ、組織としての形態が確立しました。
1890年(明治23年)に入幕から39連勝で大関に駆け上がった初代・小錦八十吉と横綱免許を受けた大関初代・西ノ海嘉治郎のねじれ現象の解決のため、番付にはじめて「横綱」の表記が登場します。これはなかば偶然の産物でしたが、これをきっかけに横綱・大関が実質的な地位として確立していきます。
この頃から映像が映されだし、小錦や大砲が映された貴重な映像(1900年撮影)が現存しています。
20世紀の変わり目のころには、横綱常陸山谷右衞門(明治29年に名古屋相撲から大阪相撲へ。後広島相撲から東京相撲へ。)と二代目・梅ヶ谷藤太郎の「梅常陸時代」による東京相撲の隆盛が生じ、東京が相撲の中心という意識がひろがります。
1907年(明治40年)常陸山が渡米。本格的な海外への相撲の紹介の最初でありました。
1909年(明治42年)6月2日、初の常設相撲場となる両国国技館の落成。相撲が「国技」とされたのがこの時なのです。
土俵入りは、東の横綱、常陸山と西の横綱、梅ヶ谷により行われ、このとき、東西制と呼ばれる団体優勝制度が生まれ、優勝旗が授与されました。
時事新報社(現在の毎日新聞社)の優勝額贈呈によ、現在の優勝制度が始まります。
今までは幕内力士の出場がなかった千秋楽にも、幕内全力士が出場するようになり、名実ともに10日間興行の体裁が整い、興行日数は、1923年(大正12年)5月から11日間に増加しました。
1910年(明治43年)5月の夏場所に行司の衣装がそれまでの裃、袴姿の庶民の正装姿から烏帽子、直垂という武家・神官の装束となったのです。
1917年(大正6年)11月29日に両国国技館が火災で焼失し、一時期、靖国神社境内で本場所が行われたこともありました。
興行としての相撲が定着することで、力士の待遇の近代化への要求があらわれ、いくつかの紛擾事件が起きるようにもなりました。
大阪相撲においては、1922年(大正11年)竜神事件と呼ばれる紛擾が発生し、力士他多くの関係者が廃業し、大阪相撲の実力が低下します。
東京相撲でも、1923年(大正12年)に三河島事件と呼ばれる力士待遇の改善をもとめるストライキが発生し、その処理をめぐって横綱大錦卯一郎が廃業する事件が起こります。
1923年(大正12年)9月1日の関東大震災により両国国技館も屋根柱などを残して焼失。
1924年(大正13年)1月春場所は、両国国技館再建中のために名古屋で開催され、それを不満に思った一部の力士は、本場所に出場しなかったといわれています。
1925年(大正14年)皇太子(裕仁親王・後の昭和天皇)の台覧相撲に際して、皇太子の下賜金により摂政宮賜杯、現在の天皇賜杯がつくられました。
これを契機に、東京・大阪の両相撲協会の合同が計画され、技量審査のための合同相撲が開かれます。
また、1926年(大正15年)1月場所から、今までは優勝掲額のみであった個人優勝者に賜杯が授与されることになり個人優勝制度が確立します。
■昭和時代
昭和11年6月相撲は尋常小学校の正課授業と扱われました。
1927年(昭和2年)、東京相撲協会と大阪相撲協会が解散し、大日本相撲協会が発足したのち、本場所は1月・両国、3月・関西、5月・両国、10月・関西の計4回、11日間で開催(1929年(昭和4年)は10月でなく9月)されるようになります。
ただしこの時期には、番付編成は若干の試行錯誤もともないながらも、1月と3月、5月と10月のそれぞれを合算して行われ、関西本場所では優勝額の授与も行われませんでした。
この時期、勝負に関するさまざまな改定が行われたようです。
1928年(昭和3年)からラジオ中継がはじまったために、仕切り線と仕切りの制限時間が設けられました。
個人優勝制度確立のなかで、不戦勝・不戦敗制度の全面施行、物言いのついた相撲での預かりの廃止と取り直し制度の導入、二番後取り直しによる引き分けの縮小化がこの時期に実施され、勝負を争うスポーツとしての要素が強くなったといわれています。
1931年(昭和6年)4月の天覧相撲の際、二重土俵の内円をなくし15尺(径4.55m)の一重土俵にし、またこの際にそれまで四本柱の下に座布団を敷いて土俵上に据わっていた勝負検査役を土俵下に降ろし現在と同じ配置の5人となりました。
1932年(昭和7年)に起こった春秋園事件で大規模な待遇改善要求を掲げて多くの力士が脱退したため、2月、3月は各8日間の変則興行となり、脱退組が関西角力協会を翌年作ったことで1933年から関西場所は廃止され、年2回の開催(1月、5月)となったようです。
69連勝を記録した双葉山の影響で興行日数は1937年(昭和12年)5月場所より13日間となり、1939年(昭和14年)5月場所より15日間と移り変わります。
戦争の影響がしだいに相撲界にも及び、1944年(昭和19年)に両国国技館が大日本帝国陸軍に接収され、5月場所から本場所開催地を小石川後楽園球場に移しました。
そのために1月場所開催は困難になり、1944年には10月に本場所を繰り上げて開催。
1945年(昭和20年)5月に番付は発表されましたが、空襲で6月に延期され、結果的に興行は7日間だけ行われ、これが戦争中最後の本場所でした。
ちなみにこれらの場所の幕下以下の取組は事前に1944年の10月は神宮外苑、1945年の6月は春日野部屋で非公開で行われ、このことを記念して、春日野部屋ではのちのちまで稽古場に当時の土を保存していました。
また、兵役に就いた力士や、戦死・戦災死・捕虜として抑留された力士もいたようです。
東京大空襲で両国国技館や相撲部屋を焼失。
戦後には、各部屋の離散状態、又は本場所開催などに対して連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)に許可を仰がなければならないなど様々な問題を抱えながらも大相撲の復興は始まります。
1945年(昭和20年)9月に土俵を16尺(4.84m)と大きくし、焼失した両国国技館を若干修復し、本場所の秋場所(11月:10日間)が開催されました。
土俵については力士会の反対でもとの大きさ15尺(4.55mすなわち現在の土俵)にもどされました。
1946年(昭和21年)に両国国技館が連合国軍最高司令官総司令部によって接収されメモリアルホールとして改装。
そのこけら落としとして、同年の11場所(13日間)が行われ、連合国軍最高司令官総司令部によって本場所開催を年3回認められたが、メモリアルホールを使用することは許可されず、1947年(昭和22年)には明治神宮外苑相撲場(現在は明治神宮第二球場)にて行うこととなります。
青天井のこの相撲場では正月場所は行われず、6月、11月、又は1948年(昭和23年)の5月をそれぞれ執り行うに留まりました。
同じ年の1948年(昭和23年)の秋場所(10月・11日間)には、戦後初の大阪場所が大阪市福島公園内に建築された仮設国技館で開催。
この時期に、優勝決定戦や三賞制度の制定、東西制から系統別総当たり制への変更が行われました。
1949年(昭和24年)になり日本橋の浜町公園内に仮設国技館(木造)を建設し、ようやく1月場所(13日間)を開催。
5月場所では戦後初めて15日間行われ、以後興行期間は15日間。
この浜町公園の仮設国技館は公園内に設置されていたことが問題となり、この2場所しか使用されず取り壊し。
そのため戦前に次期国技館建設用に用意していた蔵前の土地に仮設国技館を建設することとなります。
ところがこの浅草蔵前仮設国技館(蔵前国技館)も消防署からの命令によって仮設であっても鉄筋造りの国技館が必要となったのです。
その為、蔵前仮設国技館の鉄筋化をはかり、その後5か年計画として年々充実されていきました。
1950年(昭和25年)から1952年(昭和27年)は、本場所(1月、5月、9月)各15日間行われた(ただし1952年(昭和27年)には大阪場所が行われず、すべて東京での開催)。
大阪場所は、1950年(昭和25年)の秋場所より開催地を阿倍野区に、1951年(昭和26年)の秋場所からは大阪市難波(今現在の大阪府立体育会館のある場所)にそれぞれ変更し、仮設国技館が建築されたが、最終的には1953年(昭和28年)に仮設国技館を立替て、大阪灘波府立体育会館(旧大阪府立体育館・現在の府立体育館と同じ場所)を完成させました。
同年3月に大阪場所を行い、以後3月場所は大阪場所を行うようになります。
栃錦と初代・若乃花の栃若時代が到来し、年間の場所数が増えていきます。
1957年(昭和32年)には11月場所(九州場所、福岡スポーツセンター)、1958年(昭和33年)には7月場所(名古屋場所、名古屋市金山体育館)を行うようになり、現在のような6場所(1月、3月、5月、7月、9月、11月)、15日間という体系になりました。
1965年(昭和40年)1月場所から完全部屋別総当たり制が実施され現在に至っています。
1985年(昭和60年)1月、現在の国技館が完成し、再び両国に相撲が戻ったのです。
相撲は男性が行う競技ですが、江戸時代から戦前にかけては女相撲の興行も存在しし、近年ではアマチュアの女子相撲(新相撲)が行われ「日本新相撲連盟」という組織が存在します。
■海外に渡った相撲
日本移民とともにブラジルに渡り、南アメリカにも渡りました。
ブラジルでの最初の相撲大会は1914年8月31日、天長節を祝してサンパウロ州グアダバラ耕地で、開催。
福岡県、熊本県出身の30人余の若者が参加し、日本の本式の土俵で行われたようです。
1962年、アマチュアの普及発展を目的に、伯国相撲連盟が結成。
1966年にはブラジル政府公認のスポーツ団体となりました。
相撲推定人口は約4000人、本部はサンパウロ市。
1983年、日本とブラジルの両相撲連盟が発起人となり国際相撲協議会を発足。
1985年にはパラグアイ、アルゼンチンの相撲連盟が同協議会に加盟する。
1986年、パラグアイへの日本人移民50周年記念事業として、全パ相撲大会が開催され、日本、ブラジル、アルゼンチン、パラグアイの4か国から選手が参加。
日本からの遠征は1951年、全伯青年連盟の招聘による秀の山一行の渡伯を皮切りに、大相撲からアマチュア相撲の選抜選手が現在も遠征が続けられている。
■伝統とそれによる問題点
大相撲は、力士が大銀杏などのまげ(髷)を結って和装をしたり、土俵上への女性の立ち入りを認めないなど、日本の伝統文化が色濃く残っています。
一説には、「天の岩戸」伝説に登場し、伊勢皇太神宮の祭神でもある「天手力男命」が相撲の祖ともいわれています。
土俵には土盛りをして、神の留まる場所としての「御幣」をすえます。
また、各相撲部屋には稽古場には必ず厳かに神棚と幣帛があります。
横綱審議委員会という諮問機関や、一部の事務職を外部から採用している以外、すべて元力士(年寄)によって運営され、その閉鎖性は繰り返し指摘。
かつてはおおむね年寄は短命であり、年寄株もむしろ余り気味なのが通例だったが、近年では空き株がほとんどない状況。
結果として年寄株の高騰を招き、「準年寄」制度の導入などで対応したが、それでも数々のトラブルが発生しているようです。なお、準年寄制度は2007年に廃止されたのです。
小錦、若乃花(花田勝)、曙といった、大関・横綱を務め人気もあった人たちが次々協会を離脱しているのには、芸能界や格闘技、プロレスなど他分野に新天地を求めたい気持ちがあるが、親方になっても日本相撲協会から雇われる身という将来が保証されていない現状であり、そうした先行きの不透明感も一因としてあると言われています。
さらには、伝統に対して対立していた朝青龍に対し多々の問題に関して、日本相撲協会が2007年には2場所出場停止と謹慎という異例の処分を下したことにより日本並びにモンゴルのマスメディアがこの処分を大々的に報道され騒動となったのは記憶に新しく、年寄になるためには、日本国籍が必要。
しかし、現実に外国出身で三役、横綱まで務める者が現れているが、彼らは協会に残るために日本国籍を取得しています。(前述の元関脇・高見山=現・東関親方など)
規則が現実に対応できていないことは確かのようでありましょう。
大相撲の公演中、升席では喫煙が認められていたが、健康増進法の施行に伴い、2005年(平成17年)1月場所から全館禁煙。(室内スポーツの観覧席で唯一タバコが吸えたのが大相撲の升席であったが、以前から他の観客や力士の健康や防災面からも異常との指摘も多く、ようやく重い腰を上げた)。そのため、升席で使用していた灰皿が相撲博物館に寄贈。灰皿は陶製の物であるが、木枠に入っているなど特殊な形状をしています。
今、話題になっている「かわいがり」と言われる問題に関して、新人に対し竹刀を用いて厳しい指導を行ったりと非難を受けている。
問題の相撲部屋では日本相撲協会による事情聴取についてマスメディアが駆け付けた際に部屋所属力士が憤慨しカメラマンに暴行する事件も発生しているようです。
昨今の相撲は個人の勝敗の色が濃く、個人の利害に振り回されているように見えてなりません。
勝敗や利害のためのスポーツである前に「国技」であり、国技であるまえに老若男女・貴賎を問わない娯楽であります。また、娯楽である前に畏くも「神事」である「事実」と「意義」を再確認したいものであります。
失う時は一瞬です。
失ったものは取り戻すことも、作り直すことも出来ないのです。
こうして、日本の伝統や尚武の「美意識」がまた一つ消えて無くなるのは遺憾としかいいようがありません。
※執筆=メディカルスポーツトレーナー・山田貴文(転載不可)
※資料出典=御嶽大社
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