■{画像付き(^q^)} つれづれ日記 2008(4)


11月05日(水)一の酉に行って来ました

浅草の鷲神社(おおとりじんじゃ)と、新宿の花園神社で一の酉をしているとのことなので、
朝昼の仕事を済ませた後に、出掛けて来ました。



▲浅草・鷲神社、平成20年11月5日一の酉


▲新宿・花園神社、平成20年11月5日一の酉

浅草の鷲神社は、さすが長い伝統が地域に根付いている雰囲気があり、
街全体でお祝いしている情緒がありました。
我々みたいな外から来た"観光"客よりも、地元の人方が楽しんでいる感じ。
あるいはまた、熊手を買いに来た我々を温かくもてなしてくれている粋な祭り風情がありました。

新宿の花園神社は、場所柄か、思い出横丁〜歌舞伎町〜ゴールデン街の延長みたいな、
"飲み屋"な情緒があり、一の酉祭りを風景として楽しむ?、
その非日常的な雰囲気の中で楽しむ風情がありました。
いずれにせよ、季節感を感じるのは心身リフレッシュになりますね。。


11月05日(日)新アメリカ大統領の誕生

アメリカの歴史史上、初の黒人大統領は大差で圧勝して誕生しました。
民主党が8年ぶりの政権とのこと。
新大統領は今回の大統領選に対して、民主党地盤は勿論のこと、共和党地盤にも「気配り」「目配り」「心配り」の地に足をつけた堅実な草の根の活動が実を結んだのでしょう。

しかし、アメリカには根強い民族差別や人種差別が強く、特に南部地域は「白人至上主義」が現在いたっても思想としてあることは有名です。
また、現在のアメリカは先の「サブプライム問題」から端を発した金融不況は世界を巻き込んだものとなり、政策の如何によってはアメリカだけの問題ではなく、世界的に長いトンネルを行くことになるでしょう。
これは、アメリカだけではなく先進国や軍事を強化している国が暴動を起こしかねない世界情勢を予測できるからです。
アメリカのこれまでの歴史を見たときに、不況の脱出を底支えしているものに「戦争景気」は拭えない事実であることです。第一次世界恐慌・ベトナム戦争・湾岸戦争・・・。
この新アメリカ大統領にアメリカの国内外問わず切望することは多いと思います。

新生アメリカというのであれば、特に、人種差別や民族差別を完全に政策として打ち出すことではないでしょうか。
根強い人種差別がアメリカの雇用状況を悪化させていることは言うまでもないことです。
この人種差別が貧富の差を必要以上に増長させ、治安の悪化も招いているのでしょう。社会保障の整備に関しても決して整っている国家であるとはいいがたいのです。
貧困層に対して最低限の社会保障及び生活保障が出来ない国家は世界のリーダーとなるべきことを辞退すべきではないでしょうか。こうした政策の歪みが銃社会を容認する一因であると思います。

次には、この、銃社会への規制強化です。
自由国家の名の下で、「無秩序社会」の風潮を旋風したのがアメリカであることに気が付くべきでしょう。自由国家とは、列強連合国や特定の国家が強制や押し付けで政策をひくものではありません。
このことを踏まえて、外交政策に関しては、ベトナムや中東などへの戦争責任をはっきりさせて、戦後保障を確実に行うことです。
また、ベトナムに関しては、戦争の運用時に散布した薬害の浄化政策、地雷などの爆弾除去、中東に関しては財政支援を行い口を出さないことが良いでしょう。
国際的安全保障に関しては、武力に頼らず、必ず対話を持って接し、独断を避けることです。どんな状況にあっても、国連の権威を維持し、世界が国連のもとで恩栄できることが必定です。

更に、今回のサブプライム問題についても、第一次世界恐慌・ブラックマンデーの経験は、決して活かされたとはいい難い政策です。
市場至上主義は結構なことではありますが、『アメリカンドリーム』と称して、拝金主義を生産し、今、日本が食品偽装や汚染食品で苦しんでいるシステムを構築したのは、「大規模農業」の本場であるアメリカが発信地なのです。

金銭は、人間として「汗の対価」「労働の対価」を国家の道徳教育として何よりも優先して行うべきでありましょう。負の財産・負の政策・後顧の憂いを今行うべきなのです。
我が日本は アメリカとは安全保障関係、経済政策において更なる強い繋がりが求められます。新大統領の対応の僅かな遅れが世界に対してのアピールも遅れ、アメリカを孤立させる原因ともなるでしょう。
特に、日本はアジアの窓口としても大切なパートナーであることを再認識すべきです。
国内外問わず、選挙と同様に「気配り」「目配り」「心配り」の地に足をつけた堅実且つ粘り強い政策、富国強兵政策よりも『仁徳政策』、を優先されることを切望いたします。


11月02日(日)赤壁の戦い〜風水の奥義を集約した三國志
 
 
11月1日公開の映画『レッドクリフ Part1』。巨匠、ジョン・ウー監督が100億円を投じて、中国の英雄伝『三國志』(さんごくし)の中にある『赤壁の戦い』の話を基に、国を賭けて戦う男たちの壮大なロマンと、彼らを陰で支える女性たちの姿も浮き彫りに表現した歴史大作である。
才気あふれる軍師『諸葛亮孔明』を演じるのは、金城武。諸葛孔明と共に、2人の偉大な英雄『関羽(巴森扎布)』と『張飛(臧金生)』の活躍と、華麗で鮮やかなアクションが期待される作品。
なお『レッドクリフ Part2』は、来年2009年4月に公開予定。

この風水の達人が、『諸葛孔明』その人なのです。
諸葛孔明は、政治ばかりではなく、軍事(兵法)・天文学(太陰暦)・占術(星宿)から人術(人事)に至るまで大変な功績を後世に残した逸材として、現在も伝わっています。
中国の伝統宗教『道教』の大成者として称しても良いのではないでしょうか。

1990年代から日本で定着した『風水』は、まさにこの諸葛孔明の風水術が発展したものであります。そういう点では、『三國志』は私たちが人生を歩む上での『術』の全てが網羅されていると云ってもよいでしょう。
今回は、映画の公開と併せて、『三國志』及び『赤壁之戰』(せきへきのたたかい、西暦208年)について記載いたします。
また今年は、この『赤壁之戰』が勃発した年と同じ十二支十干である『戊子』歳、ちょうど1800年にあたる年でもあるのです。日本で喩えるならば、戦国時代の群雄割拠がこの古代に中国ですでにあったのです。
『時代は繰り替えされる』といわれますが、環境や土壌が変わっても、私たち人間は同じことを何度も繰り返してこの地球で恩恵を受けて暮らしているのです。それは、どんなに文明の利器が発達しようが、人間は浅はかな生き物であることも、この『三國志』で垣間見ることができるのです。

そもそも三国志が成立したののは、日本が弥生時代・卑弥呼の時代の、今から1800年位前、西暦200年代頃の中国です。
このころ中国は、「魏(220-265)」「呉(222-280)」「蜀(221-263)」の三つの国に分裂しており、この三国時代に本当にあった話を書いた歴史書のことを指します。

3人の皇帝が存在したのです。3人の皇帝とは、
(1)蜀の初代皇帝で後漢王朝の再興を目指す仁徳の人『劉備玄徳(りゅうびげんとく、諡号=昭烈帝)』。
(2)魏王で奸雄『曹操孟徳(そうそうもうとく、謚号=武皇帝)』。
(3)呉の初代皇帝『孫権仲謀(そんけんちゅうたつ、諡号=大皇帝 )』であります。

三国志を知る上で、『正史 三國志』と『三國志演義』の二つがあることを押さえておきたいものです。
『正史 三國志』は、史実に基づいて編纂・著述された書物で、陳寿承祚(233-297年)が著した歴史書です。魏書三十巻・蜀書十五巻・呉書二十巻の全六十五巻から成立しています。
それに対して、『三國志演義』は、羅貫中(生没年不明)の書いた歴史小説であり、七対三の割合で前者の七割が史実、後者の三割がフィクションで構成されています。
現代私たちが良く知っている『三国志』とは、『三國志演義』と考えてください。
また、陳寿が著述した『正史 三國志』に更に詳細な肉付けを行ったのが、裴松之(372-451年)で、陳寿の載せなかった「魏略」他140種あまりの史書(異聞)を参考にして『正史 三國志』の本文に膨大な注を加えた『裴松之注』と呼ぶものも存在します。
▼魏書「魏國志(本紀・4巻、列伝・26巻)」(全三十巻・巻一〜巻三十)
  武帝紀第一(曹操)

▼蜀書「蜀國志」(全十五巻・巻三十一〜巻四十五)
  先主伝第二(劉備)
  諸葛亮伝第五(諸葛亮孔明)
  関張馬黄趙伝第六(関羽・張飛・馬超・黄忠・趙雲)

▼呉書「呉國志」(全十五巻・巻四十六〜巻六十)
  呉主伝第二(孫権)

 ※赤壁の戦い(赤壁之戰)
  中国の後漢時代(三国時代)の献帝劉協・建安13(戊子・西暦208)年、長江の赤壁(現在の湖北省)において曹操軍と孫権・劉備連合軍の間で行われた戦いとして有名です。

(原文の大まかなあらすじ)
魏書一
武帝紀第一
秋七月 公南征劉表
八月 表卒 其子j代 屯襄陽 劉備屯樊
九月 公到新野 j遂降 備走夏口
公進軍江陵 下令荊州吏民 與之更始
乃論荊州服從之功 侯者十五人 以劉表大將文聘為江夏太守 使統本兵 引用荊州名士韓嵩 ケ義等
衛恆四體書勢序曰「上谷王次仲善隸書 始為楷法」
至靈帝好書 世多能者
而師宜官為最 甚矜其能 毎書 輒削焚其■ 梁鵠乃益為版而飲之酒 候其醉而竊其■ 鵠卒以攻書至選部尚書
於是公欲為洛陽令 鵠以為北部尉
鵠後依劉表
及荊州平 公募求鵠 鵠懼 自縛詣門 署軍假司馬 使在秘書 以(勤)書自效
公嘗懸著帳中 及以釘壁玩之 謂勝宜官
鵠字孟■ 安定人
魏宮殿題署 皆鵠書也
皇甫謐逸士傳曰「汝南王俊 字子文 少為范滂 許章所識 與南陽岑■善」
公之為布衣
特愛俊「俊亦稱公有治世之具」
及袁紹與弟術喪母 歸葬汝南 俊與公會之 會者三萬人
公於外密語俊曰「天下將亂 為亂魁者必此二人也 欲濟天下 為百姓請命 不先誅此二子 亂今作矣」
俊曰「如卿之言 濟天下者 舍卿複誰■」相對而笑
俊為人外靜而■明 不應州郡三府之命
公車■ 不到 避地居武陵 歸俊者一百餘家
帝之都許 複■為尚書 又不就
劉表見紹強 陰與紹通 俊謂表曰「曹公 天下之雄也 必能興霸道 繼桓 文之功者也 今乃釋近而就遠 如有一朝之急 遙望漠北之救 不亦難乎」
表不從
俊年六十四 以壽終於武陵 公聞而哀傷
及平荊州 自臨江迎喪 改葬於江陵 表為先賢也
益州牧劉璋始受■役 遣兵給軍
十二月 孫權為備攻合肥
公自江陵征備 至巴丘 遣張憙救合肥
權聞憙至 乃走
公至赤壁 與備戰 不利
於是大疫 吏士多死者 乃引軍還
備遂有荊州 江南諸郡
山陽公載記曰「公船艦為備所燒 引軍從華容道■歸 遇泥濘 道不通 天又大風 悉使羸兵負草填之 騎乃得過 羸兵為人馬所蹈藉 陷泥中 死者甚衆 軍既得出 公大喜 諸將問之」
公曰「劉備 吾儔也 但得計少■ 向使早放火 吾徒無類矣」
備尋亦放火而無所及
孫盛異同評曰「按■志 劉備先破公軍 然後權攻合肥 而此記雲權先攻合肥 後有赤壁之事」
二者不同 ■志為是

蜀書五
諸葛亮傳第五
先主至於夏口 亮曰「事急矣 請奉命求救於孫將軍」
時權擁軍在柴桑 觀望成敗
亮■權曰「海■大亂 將軍起兵據有江東 劉豫州亦收■漢南 與曹操並爭天下 今操芟夷大難 略已平矣 遂破荊州 威震四海 英雄無所用武 故豫州遁逃至此 將軍量力而處之 若能以■ 越之衆與中國抗衡 不如早與之■ 若不能當 何不案兵束甲 北面而事之 今將軍外■服從之名 而■懷猶豫之計 事急而不斷 禍至無日矣」
權曰「苟如君言 劉豫州何不遂事之乎」
亮曰「田 齊之壯士耳 猶守義不辱 況劉豫州王室之胄 英才蓋世 衆士慕仰 若水之歸海 若事之不濟 此乃天也 安能複為之下乎」
權勃然曰「吾不能舉全■之地 十萬之衆 受制於人 吾計決矣 非劉豫州莫可以當曹操者 然豫州新敗之後 安能抗此難乎」
亮曰「豫州軍雖敗於長阪 今戰士還者及關羽水軍精甲萬人 劉g合江夏戰士亦不下萬人 曹操之衆 遠來疲弊 聞追豫州 輕騎一日一夜行三百餘裏 此所謂強弩之末 勢不能穿魯縞
者也 故兵法忌之 日必蹶上將軍且北方之人 不習水戰 又荊州之民附操者 ■兵勢耳 非心服也 今將軍誠能命猛將統兵數萬 與豫州協規同力 破操軍必矣 操軍破 必北還 如此則荊 ■之勢強 鼎足之形成矣 成敗之機 在於今日」
權大ス 即遣周瑜 程普 魯肅等水軍三萬 隨亮詣先主 並力拒曹公
袁子曰「張子布薦亮於孫權 亮不肯留 人問其故」
曰「孫將軍可謂人主 然觀其度 能賢亮而不能盡亮 吾是以不留」
臣松之以為袁孝尼著文立論 甚重諸葛之為人 至如此言則失之殊遠
觀亮君臣相遇 可謂希世一時 終始以分 誰能間之■ィ有中違斷金 甫懷擇主 設使權盡其量 便當翻然去就乎諸葛生行己 豈其然哉
關羽為曹公所獲 遇之甚厚 可謂能盡其用矣 猶義不背本 曾謂孔明之不若雲長乎
曹公敗於赤壁 引軍歸■
先主遂收江南 以亮為軍師中郎將 使督零陵 桂陽 長沙三郡 調其賦■ 以充軍實
零陵先賢傳雲 亮時住臨烝

■書二
■主傳第二
十三年春 權複征■祖 祖先遣舟兵拒軍 都尉呂蒙破其前鋒 而■統 董襲等盡■攻之 遂屠其城
祖挺身亡走 騎士馮則追梟其首 虜其男女數萬口
是■ 使賀齊討■ 歙 ■音伊
歙音攝
分歙為始新 新定
■■曰「晉改新定為遂安」
犁陽 休陽縣
■■曰「晉改休陽為海寧」
以六縣為新都郡
荊州牧劉表死 魯肅乞奉命吊表二子 且以觀變
肅未到 而曹公已臨其境 表子j舉衆以降
劉備欲南濟江 肅與相見 因傳權旨 為陳成敗
備進住夏口 使諸葛亮詣權 權遣周瑜 程普等行
是時曹公新得表衆 形勢甚盛 諸議者皆望風畏懼 多勸權迎之
江表傳載曹公與權書曰「近者奉辭伐罪 旄麾南指 劉j束手 今治水軍八十萬衆 方與將軍會獵於■」
權得書以示群臣 莫不■震失色
惟瑜 肅執拒之議 意與權同瑜 普為左右督 各領萬人 與備■進 遇於赤壁 大破曹公軍
公燒其餘船引退 士卒饑疫 死者大半
備 瑜等複追至南郡 曹公遂北還 留曹仁 徐晃於江陵 使樂進守襄陽
時甘寧在夷陵 為仁黨所圍 用呂蒙計 留■統以拒仁 以其半救寧 軍以勝反
權自率衆圍合肥 使張昭攻九江之當塗
昭兵不利 權攻城逾月不能下
曹公自荊州還 遣張喜將騎赴合肥
未至 權退

(意訳資料協力:中国電影集団公司・中国国際放送局)
西暦二世紀の末、中央政権である漢王朝の力は衰え、諸侯たちの長期にわたる混戦の末、曹操、劉備と孫権という三人の諸侯が中原、巴蜀と江東地域をそれぞれ割拠しており、なかでも曹操の勢力は最も強大であった。

西暦208年、曹操は自ら大軍を率いて南下し、劉備を打ち負かし、軍事要所である荊州地域の大半を占領し、劉備を夏口(現在の湖北省漢口)に追い込んだ。
これを機に曹操は劉備を滅ぼし、孫権の治める江東をも一挙に落とそうと考えたが、これに対して劉備は孫権と連合して曹操に対抗することにした。
当時曹操は二十数万の大軍を率いて江陵(いまの湖北にある)から河沿いに東進し夏口に迫った。
一方、孫・劉の連合軍は川をさかのぼって北上し、両軍は赤壁(現在の湖北武昌の西にある赤磯山)で遭遇した。

曹操の兵士たちは北方の者ばかりで、水上の戦闘経験に欠けているため、初戦は敗退した。そこで曹操は仕方なく川の北側に軍を敷き、孫・劉連合軍と川を隔てて対峙した。
初戦に敗退を記した曹操は、己に降った荊州の武将の蔡瑁と張允に北方の兵士の水上での戦闘訓練を命じ、効果を挙げた。
蔡瑁と張允の訓練によって曹操軍が水上戦に慣れてしまうことを恐れた孫権軍の都督・周喩は、巧妙に離間の策を用いて、曹操に蔡瑁と張允を間諜だと勘違いさせ、この二人を処刑させてしまった。

周喩は、劉備の軍師・諸葛孔明と話し合った結果、曹操の大軍に正面から衝突すれば、孫・劉連合軍に勝ち目はないと考え、敵には火を用いることを決め、一連の計画を練った。
ある日、周喩が配下の部将たちを集めて曹操軍に対抗する策を練っていると、黄蓋が来て曹操軍は強大すぎるので、投降したほうがよいと勧めにきた。これに激怒した周喩は、罰として黄蓋に棒叩き五十回を処した。
叩かれた黄蓋は、曹操のところに人をやり、自分は曹操に投降する伝えさせた。実は、周喩の軍営に紛れ込んだ曹操軍の間諜も黄蓋が周喩から罰を受けたことを曹操に知らせたので、曹操は黄蓋の投降を信用して喜んだ。
このとき、天下に名の知られた兵法家のホウ統が曹操を訪れたので、喜んだ曹操はこれまで悩んでいたことをホウ統に打ち明けた。
それは曹操軍の兵士はみな北方の生まれであり、水上での戦闘は苦手な上、南方の気候にも慣れずよく病気するということであった。これをきいたホウ統は「それはいたって簡単、大小の船を組み合わせて繋げ、三十隻または五十隻の船をそれぞれ鎖で固定させ、その上に木板を敷けばよろしい。」と答えた。
そこで曹操がそのとおりにやってみると、船は鎖で繋げられるので、水上の波は如何に大きくても、ちっとも揺れないので、兵士たちは船上ではまるで陸にいるように自由に行動でき、少しも船酔いがしない。
これをみて曹操は大いに喜んだが、部下の策士が「鎖で船を繋ぐのはよいのですが、もし敵に火で攻められると、逃げ場がありません」と進言する。
曹操は笑いながら、「心配するでない、我々は北、敵は南にいる。今は冬なので、北西の風は吹くが、南風が吹くことがあるまい。敵が火で攻めても、結局焼かれるのは自分たちではないか?」と答えたので、部下たちは曹操の知性に感服し、警戒心を緩めてしまった。

ところが十一月の二十日に、突然南風が吹き始めた。劉備の軍師諸葛孔明は、早くから天候を観察して周喩と準備を整えていた。
このとき、曹操には黄蓋からの手紙が届き、いまから投降してくると書かれていた。曹操がこれを迎えようと部下たちを連れて船首に出ていると、果たして黄蓋が十数隻の小船を率いてこちらに向かってくるのが見え、曹操は喜びを隠せずにいた。こうして小船は風に乗って、あっという間に曹操軍の船団の前までやってきた。
そのとき黄蓋が手を振ると、小船がすぐさま炎上した。実は小船に積んであったのは枯れ草や油脂など燃えやすいものだったのだ。
燃え上がる小船は南風に推され、曹操軍の船団に突入したので曹操軍の船団に火が移って燃え始め、船は鎖で繋がれているため、船上の将兵たちは逃げることもできず曹操軍の船団はあっというまに火の海と化した。
慌てた曹操は船を捨てて岸に上るが、いつの間にか岸に置いた食糧倉庫も周喩が前もって派遣した伏兵によって燃やされていることに気付いた。この機に乗じて孫・劉連合軍は猛攻撃をかけ、曹操軍は大敗し、曹操は包囲から突破して、狼狽して北方へと逃げ帰ったのである。

赤壁の戦いを通じて、孫権は江南での支配を固め、劉備は機に乗じて荊州の大半の地域を占領し、曹・孫・劉の三大勢力が鼎立するという局面が形成されたのである。
また、赤壁の戦いは、多くの興味深いいわれを残した。
例えば黄蓋が周喩に罰され曹操に偽りの投降を示したことは、「苦肉の策」と称され、
また、諸葛亮の親友である魯粛は、鎖で船を繋ぐよう曹操に勧め、曹操軍の船団が火の攻めらから逃げられず大敗に至らした策略は、「連環の計」と呼ばれた。

9月01日(月)防災の日〜関東大震災と防災
 
今日9/1は『防災の日』です。
1923(大正12)年、この日に起きた甚大な被害をもたらした『関東大震災』の教訓を忘れない、という意味と、
この時期に特に多い台風に対しての心構えの意味も含めて、1960(昭和35)年に制定されたものだそうです。

また、暦の上では立春(2/4)から数えて210日目で、
特に『二百十日』(閏年は2月が29日まであるので8/31が『二百十日』)と呼び、
気象予報が発達していない中世の頃から、ちょうど稲の開花期にあたるこの時季に台風や強風が吹き荒れることから、
これら自然災害にも注意を促しす意味がこめられているそうです。
日本人が農耕民族の証ですよね。
この、防災の日が制定される、前年のこの時期には『伊勢湾台風』が上陸したことでも知られています。

いざという時に備え避難場所の確認や非常持ち出し袋を用意しておきましょう。ということは頭の中でわかっていても、実際は、何を用意すればいいか分りませんよね。
 ・一人で持ち出せる最低限のもの。
 ・一年に一度は必ず点検。
 ・電池やミネラルウォーター、缶詰などは古くなっていれば新しいものと交換。
その他、災害直後には持ち出せなくても後々使用できるように水やインスタント食品を別にストックしておくと安心です。
阪神淡路大震災や中越地震、岩手・宮城内陸地震などの事例では、家具や家電の転倒による被害も多く報告されてます。
不安定な家具、また危険なものがないかなど、一度点検してにるのもイイですね。

って、これまでは一般的な政府広告的な内容なんですが、
更に個人的にお薦めしたいのは、阪神大震災や新潟の震災で支援や取材に行った時に気が付いたことですが、
災害直後のことよりも、日数が経過したとき、衛生面や医療面で感染症や感冒が長引く方が多く、
それらは、心因性の影響が大きいのです。
そこで、避難持ち出し品と同じで、マルチビタミンやクエンアミノなどのサプリメント類を用意することで大丈夫でしょう。
災害では、栄養のバランスが崩れたり、偏った食事になることからも、こうしたサプリメントで
大方の免疫力や抵抗力の低下は最低限で抑えれます。あくまでも、参考にしてくださいね。


[ 2008年の『つれづれ日記』(3) 07月 ]


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