

▼魏書「魏國志(本紀・4巻、列伝・26巻)」(全三十巻・巻一〜巻三十)
武帝紀第一(曹操)
▼蜀書「蜀國志」(全十五巻・巻三十一〜巻四十五)
先主伝第二(劉備)
諸葛亮伝第五(諸葛亮孔明)
関張馬黄趙伝第六(関羽・張飛・馬超・黄忠・趙雲)
▼呉書「呉國志」(全十五巻・巻四十六〜巻六十)
呉主伝第二(孫権)
※赤壁の戦い(赤壁之戰)
中国の後漢時代(三国時代)の献帝劉協・建安13(戊子・西暦208)年、長江の赤壁(現在の湖北省)において曹操軍と孫権・劉備連合軍の間で行われた戦いとして有名です。
(原文の大まかなあらすじ)
魏書一
武帝紀第一
秋七月 公南征劉表
八月 表卒 其子j代 屯襄陽 劉備屯樊
九月 公到新野 j遂降 備走夏口
公進軍江陵 下令荊州吏民 與之更始
乃論荊州服從之功 侯者十五人 以劉表大將文聘為江夏太守 使統本兵 引用荊州名士韓嵩 ケ義等
衛恆四體書勢序曰「上谷王次仲善隸書 始為楷法」
至靈帝好書 世多能者
而師宜官為最 甚矜其能 毎書 輒削焚其■ 梁鵠乃益為版而飲之酒 候其醉而竊其■ 鵠卒以攻書至選部尚書
於是公欲為洛陽令 鵠以為北部尉
鵠後依劉表
及荊州平 公募求鵠 鵠懼 自縛詣門 署軍假司馬 使在秘書 以(勤)書自效
公嘗懸著帳中 及以釘壁玩之 謂勝宜官
鵠字孟■ 安定人
魏宮殿題署 皆鵠書也
皇甫謐逸士傳曰「汝南王俊 字子文 少為范滂 許章所識 與南陽岑■善」
公之為布衣
特愛俊「俊亦稱公有治世之具」
及袁紹與弟術喪母 歸葬汝南 俊與公會之 會者三萬人
公於外密語俊曰「天下將亂 為亂魁者必此二人也 欲濟天下 為百姓請命 不先誅此二子 亂今作矣」
俊曰「如卿之言 濟天下者 舍卿複誰■」相對而笑
俊為人外靜而■明 不應州郡三府之命
公車■ 不到 避地居武陵 歸俊者一百餘家
帝之都許 複■為尚書 又不就
劉表見紹強 陰與紹通 俊謂表曰「曹公 天下之雄也 必能興霸道 繼桓 文之功者也 今乃釋近而就遠 如有一朝之急 遙望漠北之救 不亦難乎」
表不從
俊年六十四 以壽終於武陵 公聞而哀傷
及平荊州 自臨江迎喪 改葬於江陵 表為先賢也
益州牧劉璋始受■役 遣兵給軍
十二月 孫權為備攻合肥
公自江陵征備 至巴丘 遣張憙救合肥
權聞憙至 乃走
公至赤壁 與備戰 不利
於是大疫 吏士多死者 乃引軍還
備遂有荊州 江南諸郡
山陽公載記曰「公船艦為備所燒 引軍從華容道■歸 遇泥濘 道不通 天又大風 悉使羸兵負草填之 騎乃得過 羸兵為人馬所蹈藉 陷泥中 死者甚衆 軍既得出 公大喜 諸將問之」
公曰「劉備 吾儔也 但得計少■ 向使早放火 吾徒無類矣」
備尋亦放火而無所及
孫盛異同評曰「按■志 劉備先破公軍 然後權攻合肥 而此記雲權先攻合肥 後有赤壁之事」
二者不同 ■志為是
蜀書五
諸葛亮傳第五
先主至於夏口 亮曰「事急矣 請奉命求救於孫將軍」
時權擁軍在柴桑 觀望成敗
亮■權曰「海■大亂 將軍起兵據有江東 劉豫州亦收■漢南 與曹操並爭天下 今操芟夷大難 略已平矣 遂破荊州 威震四海 英雄無所用武 故豫州遁逃至此 將軍量力而處之 若能以■ 越之衆與中國抗衡 不如早與之■ 若不能當 何不案兵束甲 北面而事之 今將軍外■服從之名 而■懷猶豫之計 事急而不斷 禍至無日矣」
權曰「苟如君言 劉豫州何不遂事之乎」
亮曰「田 齊之壯士耳 猶守義不辱 況劉豫州王室之胄 英才蓋世 衆士慕仰 若水之歸海 若事之不濟 此乃天也 安能複為之下乎」
權勃然曰「吾不能舉全■之地 十萬之衆 受制於人 吾計決矣 非劉豫州莫可以當曹操者 然豫州新敗之後 安能抗此難乎」
亮曰「豫州軍雖敗於長阪 今戰士還者及關羽水軍精甲萬人 劉g合江夏戰士亦不下萬人 曹操之衆 遠來疲弊 聞追豫州 輕騎一日一夜行三百餘裏 此所謂強弩之末 勢不能穿魯縞
者也 故兵法忌之 日必蹶上將軍且北方之人 不習水戰 又荊州之民附操者 ■兵勢耳 非心服也 今將軍誠能命猛將統兵數萬 與豫州協規同力 破操軍必矣 操軍破 必北還 如此則荊 ■之勢強 鼎足之形成矣 成敗之機 在於今日」
權大ス 即遣周瑜 程普 魯肅等水軍三萬 隨亮詣先主 並力拒曹公
袁子曰「張子布薦亮於孫權 亮不肯留 人問其故」
曰「孫將軍可謂人主 然觀其度 能賢亮而不能盡亮 吾是以不留」
臣松之以為袁孝尼著文立論 甚重諸葛之為人 至如此言則失之殊遠
觀亮君臣相遇 可謂希世一時 終始以分 誰能間之■ィ有中違斷金 甫懷擇主 設使權盡其量 便當翻然去就乎諸葛生行己 豈其然哉
關羽為曹公所獲 遇之甚厚 可謂能盡其用矣 猶義不背本 曾謂孔明之不若雲長乎
曹公敗於赤壁 引軍歸■
先主遂收江南 以亮為軍師中郎將 使督零陵 桂陽 長沙三郡 調其賦■ 以充軍實
零陵先賢傳雲 亮時住臨烝
■書二
■主傳第二
十三年春 權複征■祖 祖先遣舟兵拒軍 都尉呂蒙破其前鋒 而■統 董襲等盡■攻之 遂屠其城
祖挺身亡走 騎士馮則追梟其首 虜其男女數萬口
是■ 使賀齊討■ 歙 ■音伊
歙音攝
分歙為始新 新定
■■曰「晉改新定為遂安」
犁陽 休陽縣
■■曰「晉改休陽為海寧」
以六縣為新都郡
荊州牧劉表死 魯肅乞奉命吊表二子 且以觀變
肅未到 而曹公已臨其境 表子j舉衆以降
劉備欲南濟江 肅與相見 因傳權旨 為陳成敗
備進住夏口 使諸葛亮詣權 權遣周瑜 程普等行
是時曹公新得表衆 形勢甚盛 諸議者皆望風畏懼 多勸權迎之
江表傳載曹公與權書曰「近者奉辭伐罪 旄麾南指 劉j束手 今治水軍八十萬衆 方與將軍會獵於■」
權得書以示群臣 莫不■震失色
惟瑜 肅執拒之議 意與權同瑜 普為左右督 各領萬人 與備■進 遇於赤壁 大破曹公軍
公燒其餘船引退 士卒饑疫 死者大半
備 瑜等複追至南郡 曹公遂北還 留曹仁 徐晃於江陵 使樂進守襄陽
時甘寧在夷陵 為仁黨所圍 用呂蒙計 留■統以拒仁 以其半救寧 軍以勝反
權自率衆圍合肥 使張昭攻九江之當塗
昭兵不利 權攻城逾月不能下
曹公自荊州還 遣張喜將騎赴合肥
未至 權退
(意訳資料協力:中国電影集団公司・中国国際放送局)
西暦二世紀の末、中央政権である漢王朝の力は衰え、諸侯たちの長期にわたる混戦の末、曹操、劉備と孫権という三人の諸侯が中原、巴蜀と江東地域をそれぞれ割拠しており、なかでも曹操の勢力は最も強大であった。
西暦208年、曹操は自ら大軍を率いて南下し、劉備を打ち負かし、軍事要所である荊州地域の大半を占領し、劉備を夏口(現在の湖北省漢口)に追い込んだ。
これを機に曹操は劉備を滅ぼし、孫権の治める江東をも一挙に落とそうと考えたが、これに対して劉備は孫権と連合して曹操に対抗することにした。
当時曹操は二十数万の大軍を率いて江陵(いまの湖北にある)から河沿いに東進し夏口に迫った。
一方、孫・劉の連合軍は川をさかのぼって北上し、両軍は赤壁(現在の湖北武昌の西にある赤磯山)で遭遇した。
曹操の兵士たちは北方の者ばかりで、水上の戦闘経験に欠けているため、初戦は敗退した。そこで曹操は仕方なく川の北側に軍を敷き、孫・劉連合軍と川を隔てて対峙した。
初戦に敗退を記した曹操は、己に降った荊州の武将の蔡瑁と張允に北方の兵士の水上での戦闘訓練を命じ、効果を挙げた。
蔡瑁と張允の訓練によって曹操軍が水上戦に慣れてしまうことを恐れた孫権軍の都督・周喩は、巧妙に離間の策を用いて、曹操に蔡瑁と張允を間諜だと勘違いさせ、この二人を処刑させてしまった。
周喩は、劉備の軍師・諸葛孔明と話し合った結果、曹操の大軍に正面から衝突すれば、孫・劉連合軍に勝ち目はないと考え、敵には火を用いることを決め、一連の計画を練った。
ある日、周喩が配下の部将たちを集めて曹操軍に対抗する策を練っていると、黄蓋が来て曹操軍は強大すぎるので、投降したほうがよいと勧めにきた。これに激怒した周喩は、罰として黄蓋に棒叩き五十回を処した。
叩かれた黄蓋は、曹操のところに人をやり、自分は曹操に投降する伝えさせた。実は、周喩の軍営に紛れ込んだ曹操軍の間諜も黄蓋が周喩から罰を受けたことを曹操に知らせたので、曹操は黄蓋の投降を信用して喜んだ。
このとき、天下に名の知られた兵法家のホウ統が曹操を訪れたので、喜んだ曹操はこれまで悩んでいたことをホウ統に打ち明けた。
それは曹操軍の兵士はみな北方の生まれであり、水上での戦闘は苦手な上、南方の気候にも慣れずよく病気するということであった。これをきいたホウ統は「それはいたって簡単、大小の船を組み合わせて繋げ、三十隻または五十隻の船をそれぞれ鎖で固定させ、その上に木板を敷けばよろしい。」と答えた。
そこで曹操がそのとおりにやってみると、船は鎖で繋げられるので、水上の波は如何に大きくても、ちっとも揺れないので、兵士たちは船上ではまるで陸にいるように自由に行動でき、少しも船酔いがしない。
これをみて曹操は大いに喜んだが、部下の策士が「鎖で船を繋ぐのはよいのですが、もし敵に火で攻められると、逃げ場がありません」と進言する。
曹操は笑いながら、「心配するでない、我々は北、敵は南にいる。今は冬なので、北西の風は吹くが、南風が吹くことがあるまい。敵が火で攻めても、結局焼かれるのは自分たちではないか?」と答えたので、部下たちは曹操の知性に感服し、警戒心を緩めてしまった。
ところが十一月の二十日に、突然南風が吹き始めた。劉備の軍師諸葛孔明は、早くから天候を観察して周喩と準備を整えていた。
このとき、曹操には黄蓋からの手紙が届き、いまから投降してくると書かれていた。曹操がこれを迎えようと部下たちを連れて船首に出ていると、果たして黄蓋が十数隻の小船を率いてこちらに向かってくるのが見え、曹操は喜びを隠せずにいた。こうして小船は風に乗って、あっという間に曹操軍の船団の前までやってきた。
そのとき黄蓋が手を振ると、小船がすぐさま炎上した。実は小船に積んであったのは枯れ草や油脂など燃えやすいものだったのだ。
燃え上がる小船は南風に推され、曹操軍の船団に突入したので曹操軍の船団に火が移って燃え始め、船は鎖で繋がれているため、船上の将兵たちは逃げることもできず曹操軍の船団はあっというまに火の海と化した。
慌てた曹操は船を捨てて岸に上るが、いつの間にか岸に置いた食糧倉庫も周喩が前もって派遣した伏兵によって燃やされていることに気付いた。この機に乗じて孫・劉連合軍は猛攻撃をかけ、曹操軍は大敗し、曹操は包囲から突破して、狼狽して北方へと逃げ帰ったのである。
赤壁の戦いを通じて、孫権は江南での支配を固め、劉備は機に乗じて荊州の大半の地域を占領し、曹・孫・劉の三大勢力が鼎立するという局面が形成されたのである。
また、赤壁の戦いは、多くの興味深いいわれを残した。
例えば黄蓋が周喩に罰され曹操に偽りの投降を示したことは、「苦肉の策」と称され、
また、諸葛亮の親友である魯粛は、鎖で船を繋ぐよう曹操に勧め、曹操軍の船団が火の攻めらから逃げられず大敗に至らした策略は、「連環の計」と呼ばれた。
